高清水の蔵だより

雪降る夜に酛すりの唄1

2020年01月03日

〇繰り返す酒造り40余回

18の歳に酒屋に入って、現在までに合計40回余の酒造りを繰り返したことになるが、自分で直接手をつけたのは20回か30回か、それとも、まるまる40回になるか、茫洋として数の覚えがない。

28歳で杜氏を拝命した時は、随分若い杜氏が出来たと皆に心配されたものだが、そのころの酒の値段は確か一升7、80銭であった。今、1000円以上もする酒があるが、酒造りにとって1升70銭の酒も、1升1000円の酒も、造る難しさ、かわいさは同じである。

そのころは、いい酒さえ出来れば値段に定価がなかった。ひとが70銭で売るところを、モノさえよければ1円でも飛ぶように売れた。だから、皆で競争していい酒を造ることを心掛けたものだ。しかし、われわれが酒屋へ入る前までは酒造りの方法にも学問的な定説がなかったようだ。各地方、各蔵ごとに、それぞれの秘伝があって、半分は神頼み、半分はカンで行ったもので、温度計はあっても使用するでもなく、指2本でかき回してペロリとなめたその舌の感覚に頼るだけであった。

われわれはこれをベロメーターと呼んでいたが、それでも結構いい酒も出来たから不思議である。私の師匠は温度計のかわりに、細い真鍮製の棒を1本秘蔵していて、2、3分ほど醪に差しこんだ後、これを鼻下唇上にあてて見て温度を知ることに妙を得ていたが、私はとうとうこの秘伝を会得しないうちに時代が変ってしまった。

〇花岡先生指導に名声

秋田の酒が、全国的に名声を得、秋田が銘醸地の名を得たのは、やはり全国品評会が始まり、この品評会で優位に入賞したいわゆる米の精白競争時代からかと思う。

このころ、秋田に初めて醸造試験場が出来、場長に花岡正庸先生が来て、ようやく真に学問的背景のある醸造法が行われたが、この先生は今思っても偉い先生で、従来の生酛、山廃酛を改良した秋田式速醸モトを発明するとか、杜氏養成の講習を指導するとか、まるで8面6臂ともいうべき多芸多才な実績を残された。そのかわり、指導の方も誠にこわい方で、私などもトコトンまで仕込まれ、引っ張り回されて教育された。現在、なお使用されている6号酵母なども、いま宝酒造会社におらっしゃる小穴先生の発見された酵母であるが、この酵母の素材となった酒母は、当時、花岡先生の指導の下に私が酛立てした酒母であった。

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